目覚ましをかけないで 眠るようになった。 白々とした光がカーテンの裾を 縁取って、ああ、 また寝過ごしてしまった、と思う。 分かり切った失敗以下の見逃しを 繰り返す。 待っていたように、 布団に入ったまま、おはよう、 とAが言った。 春うらら、きっと今日も晴天で、 そろそろ桜も咲いているだろうか。 花見をしよう、服を買いに行こう、 料理を作ろう、 話したことは何となくの気怠さで 忘れたふりをして、 お互いがそれを 暗黙の内に了承していて、 だからまだ狭い部屋の中にいる。 ネットフリックスで見ようと言った 映画は リストに溜まっていくばかりで、 私もAも本当は大して 興味はないのだ。 映画、バイト、生活。 歯の浮くようなセリフも 言えてしまう、 だって何も見ていないから。 甘い、優しい、砂糖菓子を食べる、 言葉を吐く、 この日々を幸福と言いながら、 空洞の胸をじりじりと焦がしている 恐怖を、また曖昧にするために、 眠る。 そういう夢を見ていた。 私はひとりだった。寒い。 暖房が切れているのかもしれない。 ふと私が目覚めたのを、 図ったようなタイミングで電話が 鳴る。 私は腰から下を 布団に突っ込んだまま、 机の上の携帯に手を伸ばす。 薄暗い部屋、乾いた手の甲、 吐いた息。白い、白い、冬。 「はい。もしもし」 名乗らなかった。 電話の向こうから、 いつまで経っても返答は 聞こえてこない。耳を澄ます。 微かなノイズの向こうで何かが 鳴っている気がする。 しゅわしゅわと歪んで響くギター、 低いベースライン、 それとも私の心音なのか。 私は目を閉じ、 冷たい携帯電話を頬に押し付け、 空いているほうの耳を塞いで、 もっともっと、 その音を聞き取ろうとする。 聞かせてほしい。 無心で、ただ、それだけの、祈り。 けれどその時間は、 何の前触れもなくぷつりと断ち 切られる。 私は携帯電話を枕の上に放り出し、 仰向けになって、暫くの間、 耳に残るノイズを頭の中で 再生する。繰り返し、祈る。 眠る。夢を見る。目が覚める。 着信音が鳴る。電話を取る。 「はい。もしもし」 母の声がした。電話を切る。眠る。 夢を見る。目が覚める。 電話は鳴らない。眠る。夢を見る。 目が覚める。着信音が鳴る。 電話を取る。祈る。眠る。 空洞はどこにも 見当たらなくなっていた。 恐怖と焦燥は今や確実な痛みを 伴って私の肺を焦がしていた。 私は自分のことを、冷たい、 いっそ酷薄なほど何にも情を 持たない人間だと思っていたのに。 こんなに熱を持つこころを、 ひとりになって初めて 見出したのだ。 寝ぼけたまま携帯電話を取ろうと 伸ばした右手が、 机の上のコップを倒して、 冷え切った水道水をぶちまけた。 それを無視して、 布団を片足に引っ掛けたまま、 私は電話に出る。 「はい。もしもし」 雑音。 風音のような、雨音のような、 歪んだギターのような、 微かなノイズ。 耳が潰れるほどに携帯電話を押し 付ける。何も聞こえない。 下ろした視線の先で、ぽたり、 ぽたり、と机の端から零れた水が、 床に大きな水溜まりを作っている。 片方の爪先が浸る。 冷たい、 冷たいのに身体の内側が熱いので、 私はぼろぼろと涙を溢している。 だから水たまりはどんどん 大きくなる。 呼吸音も心音も煩いので私は音を 聞き取れない。 聞き取れないので呼ぶ。名を呼ぶ。 返事はない。 「ねえ、何したっていいよ、もう。 君が言ったこと、 本当は全部覚えているんだ。 見たいって言ってた映画も。 晩ご飯は鍋にしようって 言ったことも。 終電でちゃんと帰るよって 言ったことも。 電車逃したくらいでもう 機嫌悪くなったりしないからさ。 だから、」 本当に君のためだけに 生きていたならよかった。 許して下さい。私を。 この多大なる時間の浪費を。 どうか。 そうでないとこのまま焦がれ 続けるばかりなのです。 許して下さい。 繰り返し、繰り返し、 こんなときに限って電話はなかなか 切れない。 脈を打ち鳴らす胸を押さえて、 私は懸命に耳を澄ます。 ノイズはまだ鳴り続けている。